人的資本経営についての考察 2025.06.19

【人的資本経営についての考察】第3回 投資の内実と有効な他社比較

はじめに

前回の【人的資本経営についての考察】第2回では、人的資本経営が十分に機能しているのかを見極めるために「人的資本ROI」という指標について見ていきました。

改めて確認しておくと、人的資本ROIとは、下記のように算出される指標のことです。

この指標について分析した結果、人的資本ROIとは人材に投資した費用と比べて営業利益がどれだけ増えたのかを測定するための指標であり、投資対効果を知るという観点からは有益な指標であることが明らかになりました。

一方で、同指標には少なくとも下記2つの点で問題があることも判明しました。

給与と福利厚生以外の人材投資を考慮していない
他社比較するうえで業界毎に営業利益率に差があることを勘案していない

今回はこれらの問題点について見ていくことで、人的資本ROIに対する改定案を提示しながら、他社比較に用いることが現実的に難しいことを指摘します。

人的資本ROIの問題点①

①について、人的資本ROIの構成要素はそれぞれ

収益=全体売上金額
コスト-(給与+福利厚生)=売上原価
給与+福利厚生=投資金額

を指しておりました。

しかし、人材投資には給与と福利厚生以外のものも含まれます。では、給与と福利厚生以外の人材投資とは何があるのか。研修費が含まれることについては論を俟たないでしょうが、その他の費用についてはどうでしょう。

この点については2025年6月現在において、何か統一的基準があるとは言い難いのが実情です。しかしながら、EY新日本有限責任監査法人が経済産業省から委託された令和3年度産業経済研究委託事業の報告書(以下報告書)において、以下の4つを挙げており、一定の説得力のある分類かと思われるのでご紹介します。

報告書によると、人的資本投資は

(1)人材獲得(採用広告等)
(2)人材育成(教育訓練費等)
(3)人材保持・活用(給与等)
(4)人的資本基盤(HRシステム費用等)

の4つに分類されます。

(1)人材獲得には人材採用広告費や採用外部委託費、その他選考に係る費用が含まれ、(2)人材育成としては社内外の研修施設の施設関連費や研修委託費、教材費、自己研鑽に係る支援金/報奨金が例示されています。(3)人材保持・活用には従業員/役員の給与/賞与や福利厚生費、譲渡制限付株式報酬などが、(4)人的資本基盤にはHRシステム費用やエンゲージメント調査に係る費用などが挙げられています。

もちろん、上記分類によって全ての費用を企業横断的に明確に分類することはできないでしょう。というのも、何を採用費用や研修費用として計上するのかは、各企業において異なりうるし、実際に異なっているからです。また、人的資本の開示に係る費用はどこに分類されるのか?といった問題点もあるでしょう。

しかし現在のところは上記より明確な分類は見当たらず(統一的な基準が設置されることを望みますが)、ある程度網羅的であるとも思われるため、差し当たり報告書の提示する4分類を基準にするのがよいのではないでしょうか。つまり、人的資本ROIにおけるコストを計算する際に、(1)人材獲得、(2)人材育成、(3)人材保持・活用、(4)人的資本基盤を含めるということです。

人的資本ROIの問題点②


②についてはいかがでしょうか。経済産業省の「企業活動基本調査」を弊社が分析しグラフ化したところ、人的資本ROIには業界毎に以下のような差が現れました。

見てわかる通り、業界に応じて人的資本ROIは大きく異なっています。こうした背景には、業界毎に営業利益率が異なる点があるでしょう。では、この点についてはどのように捉えるべきでしょうか。

1人あたり営業利益を上げるために様々な工夫をするべきであって業界の差異は言い訳にならない、あるいは営業利益が低いならば人的資本への投資額は低くて当たり前だという意見もあるでしょう。こうした意見には一定の説得力があると思います。実際、収益構造を変革せざるをえない業界もあるでしょう。

しかし、産業構造上、たとえば設備投資や原料調達に莫大な費用がかかる業界の場合、人的資本への投資額を増減させたところですぐに1人あたり営業利益が変わることはないでしょう。

それだけでなく、市況による影響に関しては、事実上避けられないものもあります。市況が厳しい時にはリストラや採用の凍結などによる人的資本への投資額の削減は避けられませんが、これらの企業の施策だけで業界の差異を是正することはあまり現実的ではないでしょう。

むしろ、他社との人的資本ROIの比較を有意義なものにするためには、同じ業界に属する企業、さらに言うならば市況の影響を同じように受けている同業界の企業と比較するべきではないでしょうか。

もちろん、報告書で指摘されているように、業界における差異以外にも、企業が成長/拡大期にあるかどうかといった差異もあるでしょう。事業化に成功したスタートアップ企業ならば、人員を拡大するための投資を増やす必要があります。逆に、スタートアップ企業ほどの拡大が見込めない企業の場合は、人員を大きく増やすことは避けるべきでしょう。他にも、ビジネスモデルそのものを刷新しようとしているかどうかなど、様々な差異を考慮する必要があるかと存じます。

これら全ての差異を考慮したうえで係数を設定し掛け合わせることができれば、第一の点の修正点と合わせて適用することで、企業同士の人的資本ROIの比較衡量はもちろんのこと、普遍的な目標を設定することも大変有意なものになるでしょう。

しかし、現実的にこうした係数が設定されるには相当な時間を要するでしょうし、その係数が妥当であるのかという問題は半永久的に付随してくるかと思います。さらに、同一基準で他社の(1)人材獲得、(2)人材育成、(3)人材保持・活用、(4)人的資本基盤に関するコストを集計することは、極めて難しいでしょう。

つまり、現時点で人的資本ROIを他社との比較に効果的に用いることは、実質的に難しいと言えます。

結論

このように、今回は人的資本ROIにおける人材投資の内実と他社比較する際に留意すべき点について論じました。結果、前者については(暫定的な改定案にはなりますが)報告書が提示している基準が1つの手がかりとなること、後者については業界の営業利益率や企業の成長フェーズを考慮して一定の係数を掛け合わせる必要があるため、有意義な他社比較を行うことは現実的に難しいことがわかりました。

しかしながら、他方で人的資本ROIは経営に関する重要事項の1つであり、直ちにこの指数を経営判断に役立たせる必要があります。そこで、現実的に実現が難しいこれらの問題に対し、「絵に描いた餅」で終わらせないよう、次回は現時点で人的資本ROIを最も有効に活用できる方法について見ていきたいと思います。

Profile
Director
春日 亮佑

ラ・サール学園高校、東京大学を経て、東京大学大学院在学中に、日本学術振興会特別研究員に採択。SFJに参画後は研究者として培ったリサーチ能力と論理的思考力を活かし、CxOや新規事業責任者など重要ポジションにおいて、豊富なプレイスメント実績を誇る。日本社会のDXを推進すべく、2023年よりSFJ NEXTに参画。
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